Step3: お見舞い仲間―――後
その扉の向こうにある現実を直視したくなかった。
けれど、「会わない後悔はしないほうがいい」という彼の言葉は、ひどく胸に響いた。
彼が言うと、それはとても説得力があった。
まるで、彼もまた同じ思いを抱いたことがあるかのように。
「・・・おばあちゃん・・・」
恐る恐る、私は祖母の病室に足を踏み入れた。
6人部屋であるそこの、一番奥の窓際のベッド。
そこに祖母は横たわっていた。
傍らには、ちょうど検温でもしていたのか、看護師の姿もあった。
いつもなら、私が来れば祖母はうれしそうに破顔するのに。
私に気付いていないかのように、ただ窓の向こうの空を見上げていた。
どうすればいいかわからなくて戸惑っていると、看護師が祖母の肩を優しく叩いた。
「お孫さんがいらしていますよ」
「・・・孫・・・?」
虚ろな瞳が、空から私の姿に移動する。
私の姿をしばらく眺めた祖母は、感情のない無表情のまま、首を横に振った。
「・・・知らない」
息も止まりそうなその衝撃を、何と言えばいいだろう。
あんなにいつも笑顔で私を迎えてくれた祖母が・・・・・・。
知らずと、震えが身体に走る。
泣き出しそうになる。
言いようのない感情の波が込み上げてきたそのとき、隣にいてくれた彼が、そっと私の手を握ってくれた。
そのぬくもりで、私の中に冷静さが戻ってくる・・・。
「・・・あの、祖母は・・・?」
再び窓の外に視線を戻してしまった祖母にではなく、その傍らにいる看護師に、私は尋ねる。
「調子がいいときは、以前のようによく笑っていらっしゃったりするのですけどね。そのときは記憶もちゃんと戻っていらっしゃるんですけど・・・・・・こういうのは波がありますからね・・・。ちょうど今日はあまり調子が優れなかったみたいですね・・・」
苦笑気味に看護師は私にそう教えてくれる。
私は、勇気を振り絞るようにして、看護師にさらに尋ねた。
「・・・私・・・しばらくお見舞いに来てなかったんです・・・。だから、祖母は忘れてしまったんでしょうか・・・私のことを・・・・・・」
声が震える。
そんな私に、看護師が優しく笑いかけてくれた。
「残念なことですが、ご年配の方には多いことなのですよ。24時間ベッドに寝たきりで、何の刺激もなければ、やはり脳の回路は衰退してしまうばかりですので・・・。だからといって、ご自身を責めたりしないでください。24時間ずっとお見舞いにいらっしゃることは不可能なことなのですから」
そっと私を慰めてくれる看護師の言葉が、私の胸を締め上げるように苦しかった。
最後に、看護師はこうも言った。
「退院されるまでの間、無理のない範囲でこうしてお見舞いにいらしてください。そうすれば、患者さんの刺激にもなりますから」
私はただそれに頷くしかできなかった。
結局、祖母のどこを見ているのかわからない虚ろな瞳が、私を再び捕えることはなく、私は最後に一言だけ声をかけて、祖母の病室を後にした。
井上くんはずっと手を握ってくれていて、病室を出た後もその手を引いて、ある場所まで私を連れて座らせてくれた。
そこは、偶然にも私が初めて彼を見かけた場所だった。
休憩所のようなスペースの中の、窓側のひっそりとした空間。
彼はあのときここに座って、何かを祈り、憎んでいるように見えた。
そこに今、私が座っている。
「・・・陽は、さ」
ぼんやりと座る私に、言い辛そうに彼が話し始めてくれる。
「陽は、生まれたときから心臓が悪かったんだ。やっぱり、双子っていうのはそれなりにリスクもあるってことだよな・・・。・・・俺の母親も、俺たちを生んですぐに亡くなった」
「・・・え・・・」
驚いて彼を見返せば、彼は悲しそうな笑顔をこちらに向けていた。
「・・・陽の具合も歳を追うごとに悪くなっていって。入院する期間がどんどん増えていって・・・・・・。・・・高校生の頃、そんな陽の状態を見たくなくて、入院していても見舞いに行かず、家にいても陽を避けてた。病気の陽に、元気な俺がどう接していいかわからなかった・・・」
井上くんの話に、私はなにも言えない。
相槌ひとつ、返すこともできない。
ただ、黙って彼の話を聞いているだけ。
それでも、彼は話してくれる。
「・・・そんなとき、誰もいない家で、陽が発作を起こして倒れたんだ。間一髪で間に合ったけど、あのときは背筋が凍ったよ。・・・そのとき、後悔したんだ。目を背けたことに。会わずにいたことに」
・・・あぁ、それで彼は言ったのだ。
「会わない後悔はしない方がいい」と・・・・・・。
「・・・今、陽ちゃんは・・・・・・?」
聞いて、無神経だったかと怯えた。
でしゃばっていい話ではなかったのに。
立ち入っていい領域ではないのに。
ただの「お見舞い仲間」でしかない私が。
また彼に冷ややかな視線を向けられることを覚悟した私だったが、意外なことに、向けられたのは、悲痛な彼の視線だった。
「・・・そのときの発作からずっと、入院したまま・・・・・・。・・・いつ退院できるのか・・・・・・もう、誰にもわからないんだ・・・・・・」
そして彼は、頭を抱えるように両手を顔に埋めてしまう。
「・・・ずっと・・・ずっと思ってた・・・・・・。陽は双子の姉で・・・先に生まれてきたのに・・・・・・後から生まれた俺の方が元気で・・・・・・。俺が生まれたばっかりに・・・陽の未来も、母親の命さえも奪ってしまったんじゃないかと・・・・・・・・・」
何を言えただろう。
「そんなことはない」
そんな陳腐な慰めを彼に言えない。
彼は何年も長い間、そうやって苦しみ続けてきたのに、そんな一言で返せない。
私は思わず、立ち上がって彼の頭を抱きかかえていた。
子供をあやすように彼の頭を抱きかかえ、そっと撫でる。
彼の苦しみが、少しでも和らげばいいと思いながら。
「・・・おばあさんのことで苦しむ乾サンを見ていたら・・・・・・なんか、自分と重なった・・・」
ぽつり、と彼はそう言った。
私は静かに頷く。
私たちはきっと、ひとりで立って、生きていくにはあまりにも不器用で。
辛い現実を直視するには、あまりにも弱くて。
こうして、すがれる相手を探していたのかもしれない・・・・・・。
その時の私と彼は、たしかに「お見舞い仲間」だった。
けれど、私の中で彼の存在は、ただの「お見舞い仲間」と区分するだけにはとどまらないほど、大きな存在になっていた・・・・・・。